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佐渡、相川の金を運んだ北国街道と、参勤交代の通路、三国街道を結ぶ交通の要衝、長岡街道。長岡に端を発し妙法寺峠を越えて出雲崎に至るこの街道は、比較的雪が少なかったこともあり江戸時代には、多くの人馬が往来したという。関原酒造株式会社は、その街道筋に居を構え、酒造りを業とした。江戸中期、享保年間のことと言われている。創業時の屋号は「常陸屋」を名乗り、判木屋又兵衛刀による慶応3丁卯年出版の「越後醸酒家一覧」には、「下除、常陸屋勝次郎」の記述が見える。元々は常陸国小山の庄屋が我の地に居を構え、年貢米を使用して酒造りをしたものと考えられている。常陸屋は、代々小山姓を名乗っていたが明治の頃、常陸屋の一人娘イシは、婿を取らず六間原の外川慎之助に嫁いだ為、常陸屋、小山家の酒造りは外川家に引き継がれることとなった。その頃の銘柄は「越之老松」を使用していた様である。現在の銘柄「群亀」も同様の時期から使用を開始し、「鶴は千年、亀は万年」のことわざがある様に、亀は長寿の象徴であることから「群亀」を飲んで健やかに長生きして戴きたいとの願いが込められた酒名である。その後、順調に業容を拡大し、中国新聞社による大正7酒造年度全国醸造家相撲番付には、製造石数2,552石で、西の前頭に登場している。大正末期には北海道に進出し、釧路市住吉町に敷島酒造合名会社を設立した。敷島酒造合名会社は、昭和27年当時の支配人に売却し現在も「福司」の銘柄を発売し営業している。又、昭和15年には、中国大陸にも進出、蘇州城外湖田上路頭堂西街11号に関原醸造公司を設立し、清酒の製造販売を開始した。昭和10年12月10日、外川酒造店から改組、関原酒造株式会社を資本金2,500千円にて設立し、個人営業から会社組織へと変化を遂げた。その後、時代は酒造業のみならず、日本国中を巻き込み、日華事変から第二次世界大戦へと向かう。第二次大戦中、企業整備の名のもと、酒造メーカーの休業が相次ぐなか、生産を続け創業時より一冬の休むことなく酒造りを続けている。又、戦中当時は軍需工場に指定され高梁から航空燃料用のアルコールを製造していたと伝え聞いている。国内の食料事情が逼迫している中、酒蔵では白米を使って清酒を製造する他、使用人も白米を食していたという。昭和18年10月31日の新潟県酒造組合聯合会の決定による基本石数は1,505石であった。又、余談ではあるが、先の蘇州に設立した関原醸造公司は、敗戦とともに閉鎖し、地下に財宝を隠匿した後、命からがら引上げ船に乗船、逃げ出したという。創業以来、良酒醸出をモットーに酒造りに励んできた証が数々の受賞歴に表れている。昭和30年代制作のポスターには「時代は変わった、ただ・・・杜氏の魂は変わっていない。何代も何代も酒造りに魂を注いできた、これこそ群亀です。」と記されている。主な受賞歴を挙げると下記の通りである。
| 大正5年11月 |
名古屋税務監督局管内第3回酒類品評会 |
1等賞 |
| 大正11年7月 |
平和記念東京博覧会 |
銀牌 |
| 大正15年11月 |
第10回全国酒類品評会 |
1等賞 |
| 昭和7年11月 |
第13回全国清酒醤油品評会 |
優等賞 |
| 昭和7年11月 |
東京酒類商同業組合第11回清酒品評会 |
優等賞 銀牌 |
| 昭和50年11月 |
第21回関東信越国税局清酒鑑評会 |
首席第1位 |
| 昭和63年4月 |
新潟県酒造従業員組合自醸酒品評会 |
第1位県知事賞 |
| 平成4年5月 |
全国新酒鑑評会 |
金賞 |
| 平成9年5月 |
全国新酒鑑評会 |
金賞 |
| 平成12年5月 |
全国新酒鑑評会 |
金賞 |
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他、関東信越局に於いては、優秀賞を多数受賞 |
創業時より連綿と良酒醸出に努力してきた影には、酒造りの司、杜氏の存在抜きには語れない。昭和5年より昭和34年まで田中氏が杜氏を務め、「うるち四段」といわれる四段掛けの技術を開発したと聞いている。田中杜氏は杜氏の新潟県醸造試験場長、星野先生の斡旋で当社に酒造りに来る様になったという。昭和35年36年の2年間を水沢氏が務め昭和37年から平成12年まで丸山民男氏が務めた。上記受賞歴の殆どは、丸山杜氏の手腕であり、希代の名杜氏であった。そして現在、機多の名杜氏の技を現代の技術で受け継ぐ若手の飯塚正人が製造全般を司っている。そして関原酒造は昔も今も変わらず良酒醸出に心血を注いでいる。
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